鯏浦(うぐいうら)城

2017年10月31日撮影


◆別名

 

◆所在

弥富市鯏浦町上六

 

◆交通

 

◆歴史

当時の木曾三川の河口は現在よりも広く、七つの大きな島(七島が長島の由来とされている)と、それを囲むように小島が点在しており、各島は河川の増水から身を守る為に築かれた堤防が土塁のような役割を果たしている要塞であった。

 

永禄8年(1565年)服部友貞の不在を衝き、織田信長は弟の信興と、蟹江城にいた滝川一益の軍勢を輪中地帯に派遣し、いくつかの島を占拠する事に成功する。

信長は、信興に命じて長島城に対しての最前線とも言うべきこの土地に鯏浦城を築き、北の立田輪中に築いた古木江城と共に一向衆の抑えとした。

 

元亀元年(1570年)信長が浅井・朝倉連合軍と対立して動けない隙を狙って、北伊勢に勢力を持っていた一向衆は、桑名城の滝川一益に対して兵を向ける一方で、長島の伊藤氏を討ち取って長島城を手中にすると、さらには古木江城の織田信興をも襲撃し、家臣80名あまりと共に敗死させた。 

 

信頼している弟の信興を殺された信長は激怒したと言われ、元亀2年(1571年)から始まる三回にわたっての長島一向一揆殲滅へと繋がっていく事になる。

 

◆現在

薬師寺一帯が城跡と言われており、境内には城址碑の他、船を繋いだとされる大楠が残されている。